john cage pour les oiseaux(ジョンケージ 小鳥たちのために)
かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。 (p.60上段)
この本ちょこちょこ読んでいる。
この部分は禿同すぎた
lucian,jenny savilleが好き(ベーコンは少し自分にとっては難しい、あの変形のさせ方は)
ただ具体と抽象というのも考えてみるとわからなくなる。ゴッホは具体的?ゴーギャンは?セザンヌは?ブラックは?
まあ人間であるうちは常に抽象化させようとしちゃうんだろうからそれに逆らいたくなる、というのもまた人間のサガ。
第九地区
今更第九地区
モックドキュメンタリであることの利点
①ヴィカスが普通の人であるという分の興味薄れへの補完がしやすくなった
②差別する側の視点に引き込まれやすくなった
というのはウタマルの指摘
またヴィカスエビ化に伴い視聴者は次第に差別される側へも考慮されるようになるが、
監視カメラ映像など適宜挟み込むことで前後の態度の断然がない。
ということもいってた
このあたりは同意
しかしラストの奥さんの話すシーンなどは蛇足だと思った。やかましすぎる。これならレオンのラストの方が静かなくらいだと思った。
三年待てといわれクリス殴り倒すヴィカス
そしてまた三年かかるといわれ自分はそこに留まり死守するヴィカス
これがやはりハイライトだ
映画は映画だ
ほんものとまねっこ
本気と演技
やくざと俳優
心からのことばとセリフ
黒と白
などなど対立項が初めのうちははっきりとした境界線をもって提示される。
そして俳優に代表される方の項は世間の評価は(表面的には)高いが傲慢で空虚でにやけている。
一方やくざの方は世間から忌み嫌われており、実際に手をけがして生きている。
とはいえそれは生活の必要にしたがっている故に強力なものである。
こう書くとやくざの方が優位に立ちそうであるが必ずしも常にそうであるわけではない。
順番に互いの危機が訪れる。次第に両方の項が融合していき、境界が揺らぐ。
象徴的なのはラストシーンの一歩手前、即ち映画内映画のラストシーン。がちの決闘シーン。
二人はそれぞれ白と黒をまとい続けてきた(スタさんはプライベートの時は白でない)
がここでもみくちゃになり泥?にまみれて判別が難しくなっていく。かろうじてセリフや髪の長さで分かるがふたりは汚い緑色をしている。
演技と本気の境はガンぺの言うとおりカメラがあるかないかでしか決められない。そしてカメラの有無も当事者の心によってかわる。カメラがあっても忘れる、気づかないことはあるし、なくてもあるかのように意識することもある。
ふたりのやりとりはもちろんだがとりまきとのやりとりもいい。
この映画も笑えるところは多かった。
ガンぺの子分がかあちゃんがというはなしをして〜いってこい〜映画を撮ろうぜ、ばしばしっというじゃれあい〜兄貴大変だー
という流れは見事に死亡フラグを回収しきっていて、笑ったいやないた。
ラストシーンは執拗な打撃、首なしの仏像贈呈からの血塗れ微笑
というのも映画でしたー
という自己言及をしての完璧な終わり。
正直この映画は完璧すぎた。カメラのアングルとかそういうものは自分はとんと知らないので分からないが構造的には何一つ傷がない。
かえってそのことが傷といえないこともない。完璧な工業製品という感じがややするかも。
ぶっ壊れたシーンはラストのイ・ガンぺの狂気といえるかもだがこれもそもそも映画だと直後に言及されるのだからぶっ壊れてはいない。
贅沢な要求であるがそんな破れも含んでいたら人生ベスト級になりかねないできだと思った。
イ・ガンペのソ・ジソプは私男だけどセクシーだと思ったわ。スタさんも初めのにやけっぷりからの変化はないすだった。
他の俳優もみんなよかった。
wowowの韓国映画特集で少し思ったこと。
韓国映画のこのところのクオリティの高さは政府の政策の賜物とよく言われる。
これらの作品はすごく真っ当で分かり易い。これは政策がどんなものか今しらないがそのことに由来するのかなと思ったりする。
もっとも異端者は辺境から現われるであろうからそんなことは気にしなくてもいいだろうが。
チェイサー
最近tvでしか映画を見てない。
役者がいい。とくにきれいじゃないおやじがいい。
ダークヒーロー、アンチヒーローだけが本当に敵を捕まえることができる
ダークなヒーローといってもギリシャ的なヒーローはそもそも今の価値観から言えば清濁併せもつというやつらっだったろう。だからジュンホみたいのが真のヒーローといえる。
この映画は大体真ん中くらいまで笑えるシーンがちょいちょいある。そしてだんだん笑えなくなり、最後には希望がほのかに兆す。希望の兆しもレオンのように大甘にはもちろんしない。
動機はないという調書を許さない佐野史郎っぽいお偉いさん、ヨンミンの歴史は甥のエピソードのみ、ほかの人々についてもそんなに語られない。こういう動機というものに対する考えからはすごく好き。
それに舞台もすごくいい。坂が多いとても入り組んだ住宅地はいつ人が消え去っても不思議じゃない。シティオブゴッドのリオの丘で駆け回ってた人たちの躍動。あっちは銃器、集団間の抗争といろいろ違いはあるけれど具体的な場所を動き回る人たちの生を感じさせるということは同じ。よく走る映画はいい映画、という法則を立てたいがたぶん嘘だろう。でもダニーボイルも嫌いじゃないです。まあよく走る映画はすきだよぼくはというくらいのもんです。
この映画の山場、ジュンホはトンカチを振り下ろすのか否か
島国根性
日本は他国との境界を海によって作っている島国です。そう頻繁には他人がこない。領土があまりにも自明なものに思われてくる。外部はあまり意識されない。内部はもはや住民に癒着して離れない。
とはいえというかだからこそ到来者は必ずしも明示的に排斥されない。誇張していえば内部が余りにも膨張した人間には外部がほとんどなく、他人を拒むこともできない。他人はそもそもいなかった。
日本人は到来者を吸収する。官僚と自民党は敵対せず、吸収しあいひとつのものになる。文字をはじめとした技術を吸収する。日本語を公用語であると規定しない。なぜならそのような明示は境界性を呼び覚まし対立概念が想定されかねないから。
これらを悪意で用いるならばフランスのような明示的な同化圧力よりいやらしい(もっとも善意であっても体制を補強することにはかわらないが)
もっともこれらのことは大陸における共同体でも同じようなものであろう。そもそも大陸というのは巨大な島であるだけなのだから。
あらゆる二項対立は理念型でしか表現しえない。実情を忘れなければこのような二項対立は役に立つ。
これらを考慮して書くと島国はどちらかといえば外部を忘却するので、ハイコンテクスト社会を形成する傾向があるということが可能であるやもしれないのだが。。。などとなるがどんだけ臆病なんだということになる。
そこで病は質的なもでなく量的なものであるというあの至言ですますのが一番かっこいい。
島国根性とは外部をそのままにしておけない心性のことだ。
するとそれって人間心理のことじゃんとおもったり。