告白

告白 2010 中島哲也

なーんてね
修哉が二度ほど言ったセリフであるが
松もなーんてねをそれまでくりかえしてきてた
映画自体がなーんてねを繰り返してきた。
最後のなーんてねはママは死んで内でちゅよもあるけれどこの映画全体に対していっているようにも感じる

映画は暗い箱に入って終わったら出てくるもの
なーんてねの世界だ

この映画は映画自身にも言及しているし親子のはなしもしている
結構普遍的

映像はさすがにちょっとうざいなとは思うが
この閉鎖感は内容にあってはいる
だけど(これはかなり勝手な思い込みかもしれないけど)この監督自体がかなり閉じた世界観をもってるきがしないことはない
だからなんかちょっとやな感じはする それとあまりに演出された画面なのでこれが地続きのこととは全く思えない。
そうするとなーんてねの威力は弱くなる気がする

とはいえ内容はかなり論理的であんまり文句言えない
原作読もう

告白への批判としてすべてをデザインしようとしている
エイズやいじめなどを交換可能なものとしてしか描いていないという批判例えば(もはや一周遅れどころでないがhttp://www.webdice.jp/diary/detail/4616/
追記あとむしろこちらを先に挙げるべきだったが高橋ヨシキさんhttp://d.hatena.ne.jp/satan666/20100623
これはいまや本当にそれらのことがかけがえのない一回性のものだとは信じられない時代であること考慮できていないゆえの批判だと思う
これほど資本主義社会が発展した世界で自分を含めたあらゆるものが交換不可能なものだとどうしたら信じられるか
それは愛する者との相互承認によってのみ可能だろう ただしこれさえ危ういものである(この映画では修哉は唯一の理解者を殺す 母はもしかしたら生きているかもだがいずれにせよ理解しあえない

無邪気にもこの映画に対してそのような姿勢で怒ることができるのは幸せというか時代遅れというか。
中島哲也というのにイラっとくるのも理解可能だし、監督がわれわれの交換可能性というのに意識的に言及しているのかは不明ではあるが

なーんてね

john cage pour les oiseaux(6)

ダニエルシャルル あなたは先日の対談で、シュトックハウゼン流の連続体という概念に異議を唱えられましたね。確定的であると同時に日確定的であるような作品を否定なさった……。
ケージ そうです、ただし〈同時に〉ということが、作品の全体像に用いられ、しかも、その全体像が本質とか非常に一般的なものとして、抽象的にとらえられている場合ですがね。それは、セリエルであるないにかかわらず、ふつうの作曲家がかなり頻繁にやっていることです。そういう作曲家はすぐに時間の外、想像上の空間に身を置く。ですから、作品が確定的なものと不確定なものの両方を含み、またその相互間のあらゆる推移の段階を含んでいるのは、明らかに、その人にとっては満足できることなのです。このようなものの見方は、確定性と較べて不確定性の持つ不思議さを打ち消してしまう。もし連続体という概念を認めれば、不確定性は確定性より完成度が少し高いか低いか程度の確定性のⅠ変種に過ぎなくなる。一方から他方に行くのに飛躍が必要なことが忘れられているのです。ではどうやってこの飛躍を遂げるのか。私の答えは時間が紗要するに任せなさい、です。すなわち、作品はこれとあれを含まなければいけないからこれこれの要素は排除すべきだといった、作品に対してあまりにも支配的で、また作品から遊離した見方に固執しないことです。作品を時間の外で考えないことです。言い換えれば、様々な可能性を確保しておくのではなく、それらが次々と現れるようにだけしておくのではなく、その線的構造を断ち切り、すべての可能性を積み上げるのです、一瞬に同時に。私たちは『HPSCHD』や『ミュージサーカス』でのように、あらゆる秩序がおのずと生じ自由に結びつくままにしておくこともできます。非‐線的構造がそれらの秩序を相殺させるのです。この非‐線的構造をゆるぎないものにしなければならない。それが〈有用なもの〉の役目です。〈有用なもの〉が非‐秩序を、じゆうに保証するのです。逆に〈有用なもの〉がなければ、避けようもなくふたたび秩序、つまり線的構造に陥ることになるでしょう。圧政や暴力は線的なものの側にあるのです。私が考えている不確定性とは、非‐線的なものへの、豊かさへの飛躍なのです。p.202

ここでたびたび言及されていた有用なもの、ユーティリティについて説明される。あれかこれかではなく、あれやこれやの状態にするためには人間を放っておいてもできない。必ず沈殿する。
そのあとあなたの作品にも確定性と不確定性の二元論が見られませんか?いえそれは揺らめく多様なひとつなんだよみたいなことを言う
ドラマの否認 ブーレーズシュトックハウゼンはドラマティック クリスチャン・ウォルフはそうでもない。

john cage pour les oiseaux(5)

フリージャズってそんなにフリーなのか、観念と音楽的関係の世界に閉じ込められているように思えるという。

たいていのジャズの局で私が耳にするのは、会話に似た即興です。一人の音楽家が他の音楽家に応える。だから各人は自分がやりたい演奏をする代わりに、できるだけうまく他の演奏に応えるためにのみ、耳をそばだてて他人の演奏を聴くのです。またフリー・ジャズと呼ばれているものはおそらく時計とリズムの周期性から自由になろうとしているのでしょう。ベースはもはやメトロノームの役割を演じてはいない。でもその場合ですら、時間的なビートの感覚は依然として保たれています。ジャズは〈音楽〉の範疇に留まっているのです。

必ずしもそんなことはないんじゃないというダニエル・シャルルに対してケージは彼の音楽に感心していたというジャズグループとの出来事を語る

彼らは舞台の上にかたまり、さっき話したような具合に演奏しました。互いに聴き合い応え合いだしたのです。……私は彼らに……各人が独奏者のように、世界にたった一人でいるかのように演奏するよう言いました。……リハーサルではすべてが満足できる形で行われました。……ところが残念なことに聴衆を前にすると、聴衆のまわりを動きながら演奏しているのに、語り合い応答しあう習慣を取り戻してしまいました。すばやく自由になるということは、容易なことではありませんね。

失敗だったミュージサーカス、聴衆は作品を期待=予期してしまっていた。成功だったカンフィールド
そこからエレクトロニクス、ロックについて

―エレクトロにクスはロックンロールを保証する手段だとは思われませんか?
ケージ ロックについて話をするのならば、事情は違ってきますよ。エレクトロニクスはロックを全く変えてしまいました。ジャズはその伝統にしがみついていますが、ロックでは、電乙は音響の海の底に沈んでいるんです。すべてが入り混じっているというのは素晴らしい。そして演奏者は皆意見が一致しているように見える……彼らは生きている。ところがジャズでは演奏者は退屈しています。ジャズは線的な形態ですが、ロックは違うんです。
―しかしながら特にろっくでは、ビートの規則性から逃れられませんよ。
ケージ でもその規則性は、音が充分に増幅されるときえてしまう。ガラガラのように、目の前でリズムに合わせて振り動かされている対象物はもうありまえん。人は対象物の中におり、この対象物が流れであることに気づく……ロックでは尺度の変換があります。私たちは流れの中に投げだされている。ロックはすべてをひきずっていきます。pp.173-175

知らずに踊りだす。パッションの語源を知った時はみんな心震えたよね

john cage pour les oiseaux(4)

昔ながらの水族館ではそれぞれの種類の魚が、上に名前を掲げられた小さな仕切りのなかに閉じ込められている。一方最近の水族館ではあらゆる種類の魚が一緒にいれられていて、一匹の魚が目の前を通り過ぎても、それを正しくはどんな名前で呼べばいいのか判断を下せなくなっている、と。さてそのあと私はそれを普遍化することにしたのです。アルファベット順のはいれつのおかげで、(最新の注意を要する厳密なものから、記譜法が全くないものまで)変化に富んだ記譜法が共存している私の本だけでなく、私が考えているような音楽、さらに社会全体にも適用される普遍化です。……
でも私は(芸術の)〈対応〉をそれほど信じていないのです。私にはむしろ対話があるように思えます。つまりさまざまな芸術は伝え合うのではなく、お互いに話し合っている、それらが互いに無関係であればあるほど、たいわはより有効なんです。p.161

ケージは伝達(コミュニケーション)より対話、会話を好む。(趣味はきのこと無駄話)
伝達はオブジェを想定しているから

ラウシェンバーグとは伝達の必要がなかった。マーク・トービーはアメリカ人のピカソだ。とくにホワイトライティングの時代がすきだ。

マース・カニンガムについて話すところ

二つの音がぶつかってもなんの問題もありませんが、振り付けの場合、二人のダンサーがちょっと激しくぶつかると片方がダンスを続けられなくなることもあるのです。有用性(ユーティリティ)―この場合は逃れられない必然的なものの意味でこの言葉を使っているんですが―と美的体験が対立していることを考慮しなければなりません。この対立は音楽にはない、あるいはもうないのですが、ダンスには強固に残っています。つまり音楽はどんな有用性からも解放された生の手本を私たちに示す。一方振り付けの方は、有用性とともに生きていく上でしなければならないことの手本なのです。……人間の肉体の動きによって表現されるような最も高いレベルのエネルギーは、ダンサーが最新の注意を払って自らを鍛える勇気をもったときにしか奔りでてこない p.163

カニンガムとは空間についてとくに考え方が似ていた。様々な芸術の自立とは空間の状態のことだという。

カプロー、ディック・ヒギンズには意図があるし、彼らの起こすハプニングはオブジェの状態にあるもの。
白南準のしごとは魅力的だが、多くはぎょっとさせると、ネクタイを切られたのはちょっとトラウマらしい。

次はジャズとロックのとこ

おにく

とりとめなく最近見た映画、テレビで。テレビで見る映画は映画じゃないわけじゃないよ。テレビで見る映画だよ。
プレシャス
俳優がいいです。映像的に手をかけているのが多そうだった。
構造的にはあんまりギミックが多いわけじゃない。ブラインドが下りた―という話をプレシャスがマライアキャリーのホワイトもといワイスにしてたが、家を出るにシーンではあいてたり。
歌については教会を遠目で眺めていて妄想するけどそのまま過ぎ去っていくからその方面にはいかない。そっちに行ったらヘアースプレーになっちゃうけど。
あとギミックでは鏡があった。はじめの方ではホワイトでブロンドでスリムなのが移ってた。最後の方では大きな姿見でそのままうつしだされた。
食べ物のカットが冒頭のところでかなり印象的に使ってたけど、それが後半にはあんまり生きてこなかったかな。チキンの食い逃げもそんなにフックになってない。それと一番はどうしてこんなに肥ったのかというのがかあちゃんに食わされたからていうのが出てくる。このことにもっと踏み込んでもいいのかなと思った。やっぱこの体型の人がやってるという点がかなり重要な点にみえるから。
もちろんプレシャスは自分の人生を引き受けたんだぜというのはわかるが、モニークの母ちゃんに比べると印象が薄い。オルタナにもすっきりおさまっちゃうし。最初の大きなバトル、罵りの言葉がリズミカル。最後の告白ではもう完全に主役だった。もちろん殊勝な態度ともいえないし、周囲にも受け入れられないが、赤裸々だった。

モンスター
シャーリーズ・セロンが美しくない映画として名を馳せたもの
顔はある角度から見ると全然きれいじゃんと見えることも多いが、肌の質感、体型はダイナマイトボディです。青いイナズマです。僕を責めます。
娼婦がモンスターになる話とまとめられるが、モンスターといえば悲哀なのである。ジェンダーの話ともいえるが、映画をそういうので切るのはマジうざいよね派なのでやめよう。
疲れたおっぱいも見れます。セルのは見れません。セルはほんとなんもしねーな思った。別におっぱいの話だけじゃなく、唯一進んでしたのは飲みにいくときか。ランニングにパーカー、ニット帽のセル。この恰好は好きだった。これでおっぱいのでかさに気づき、期待したが、裏切られたよ。あとセルはバッファロー66のこらしい。驚いた。あとあんなとこで事故んな、ぼけって思いますよね。
基本的にモンスターと少女の物語。モンスターは人間から見ると性別不明である。少女は大人になっていくものだ。
モンスターは世界を制すか、さもなくば死である。
少女はまあうまいことやっていくんでしょうね、レズであっても。(ていうかもう大人になっちゃてるよね

12モンキーズ
やっぱブラピはいいね。好きだ。出てる作品がいいよねまた。セブンにもファイトクラブにも出てるんですぞ、すごいですぞ。この作品では結局おとり役ということなんだけどね。
さて、この作品元ネタはボンヤリ覚えてるくらいだが、あんま関係なくなってる気がする。これはおとりとずらしの映画だと思う。そこが好き。冒頭では明示的に目的が与えられる。しかしそれがだんだん忘れられてくる。忘れられたくらいのとこが一番面白い。あとヒッチコック初めの渦ぐるぐるで昔からそう思ってました!みたいな感じになった。あの階段でくるなと思った。でもあそこまでめまいでくるとは思わなんだ。ああいうの嫌いな人いるかもだが、割とあってるとおもうだよ。全体ののりとね、しかも相手を過去の幻影にむりくり仕立ててしまうというのもふさわしい。
あとブルース・ウィリスにはズラをかぶせたくなるのは人間の生理的欲求といえるれべるもはや。サロゲートでもかぶってたし。そういえばサロゲートは肉体の衰えがめまいぐらいで筋力の衰えとかがあんまり書いてなかったな。まあ驚異的な身体(サロゲート)との対比は少しあったけど。ただ最後にあのブルース・ウィリスがキーボードポチで解決っていうのがあるのならひょろひょろウィリスも見たかった。
うん、それで12猿はブラピ達が熊を放つをしたあとに思い出して話が戻るのだ。あの夢の場所に。ラ・ジュテですよ。まあでもその辺はもう思い出さなくてもよくねていうくらいで。そのはなしならラ・ジュテ見ますよという。もっとずれっぱなしでもいいかなという

おにくの話はまたこんどしかっりめにいこう

john cage pour les oiseaux(3)

ケージ ラモンテ・ヤングが微分音の関係に払う非常な関心と、聴衆に要請する注意力は、実際、私が音楽を作る時の態度とはまるで違っています。私は感覚の注意を自由にしておくことを望んでいるのですが、彼の方は注意を集中させようとするわけです。
 ― そこがあなたと較べてありきたりな考え方ですね。
ケージ あるいは彼の音楽を建設的なものと考えることもできるでしょう、というのは彼が注意力の集中を利用して、聴衆のうちに落ち着きが生じることを期待しているからです。私のほうはこう仮定しているんです、落ち着きはもともと存在していると。また私たちは、なんというか、学校は卒業してしまっている。私たちは生きるのに忙しいし、初歩的な教育はもうすんでいるんだ、と。ですから私はなにも建設しないのです。
……私がラモンテ・ヤングの音楽を聴くときには、彼のやり方ではなく、私のやり方で、聞いているものを導くのです。すると彼の音楽のなかに、まさに可能性をもった事物の世界を発見できる。その瞬間、聞くということは、顕微鏡のレンズの下に特定の対象物を置くことになる、その対象物は全宇宙になりうる、単にそこまで拡大されているという事実によってね。つまり対象物であることをやめるのです。(pp.146-7)

ジョン・ケージはラモンテ・ヤングについては、落ち着き以外の特別な感情はないという。
La Monte Young:The Second Dream of the HighTension Line Step
La monte Young: Dreamhouse

またモートン・フェルドマンについては穏やかでエロチック、そして変化せずに連続しているという
Feldman: "Rothko Chapel"

コンセプチュアル・アートの人たちが彼をよく言及、参照しているけどという流れで

実際この音のない作品(4'33")で私が気に入っていることは、これを演奏することはいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないという点です。そしてそれが実査に演奏されるたびに、驚くほど生き生きとした経験をすることができるんですよ。

サティのヴェクサシオンを実際に十八時間演奏していると予想もつかないことが起きてきていた話しから

そこでこの体験で確かめたことをコンセプチュアル・アートに当てはめてみるとm私がその種の芸術に感じる難点は私がそれをよく理解しているとしてですが、何かが起きる以前にそれを知っていると思わせるところにあるのです。なぜそれが難点かというと、経験そのものは常に経験について考えられたこととは別のものだからです。(p.151)

ふたたびヴェクサシオンの例から

コンセプチュアル・アートは、ある理屈discourに基づいているある経験を拒絶することからなる態度と違わないと思うのです。それはただ単に、コンサートに行かないために、または古典的とか近代的とかの意味での絵画を描かないために、ある理屈のなかに閉じこもっているということです。しかしある経験を矮小化し、拒否し、除去するのを許す条件はまさに人が他の経験をもてるかもしれない条件なのです。目的論はそのあとでしか介在してきません。目的論に達するには、つまりある経験を無効にして他の経験を優遇するためには、到達したり所有したるしたいものに実際に注意を向け、自らを集中しなければなりません。しかし私は反対に、注意を拡散し、そらせようとしているのです。p.153

john cage pour les oiseaux(2)

書物の氏は言語の終焉ではなく、言語は存在し続ける。私の作品には沈黙があふれてきたのに、やはり音楽があるのと全く同じようにね。精神分析といったものが遠ざけられて、ますます音楽があるようにさえなっているんです。沈黙のおかげで、騒音が結局私の音楽に入ってくる。選ばれた騒音ではなく、存在する、また生起するあらゆる種類の騒音が。〈モザイク的〉形態のような印刷上の変化は、書物のなかに侵入した騒音なんですよ。書物への有罪宣告があると同時に、書物が自らを開くのです。書物はすべてを受け入れることができるわけです。(p.107

私のほうもキャシーに説明したんです、芸術が消滅し、少しずつ生活と呼ばれていくものの中に沈んでゆくような状況を、私はとてもすきなんですよ、と。(p.109

そのキャシーとのコンサートは実現しなかったが、録音はあるみたい
Cathy Berberian | Song Books | John Cage | Edward Estlin Cummings

この辺りを読んでいて思い出したこと
息を吸うには吐かなくてはいけない。水泳をするとき意識するのは息を吸うことではない。
まどろみの中で遠くに消えていく音の心地よさ(夏の夜で消えていく音は三人以上の話声)
水中で聞こえる歪んだ音の落ち着き