ゲームはいかに見えなくなるか

見えないゲーム、暗黙のゲームは開かれた領域で行われている。当たり前だが見えるゲーム、明示的ゲーム、狭義のゲームは限定領域で行われる。
またサッカーを例にして考えてみよう。始まりには何か転がるものを身体を使ってどこかに転がしていくようなものがあっただろう。地面に一番近いのは足であるから足を使うのが一番自然である。サッカーは二足歩行でなくともできるスポーツです。そして町ごと、村ごとのルールがある状態を経て、次第にルールが統一されていきます。これは名指し得ぬものが名前を与えられていく過程です。コノテーションデノテーションになっていくわけでこれはあくまで政治的に決定される。
ここで考えておくべきは原始サッカーも今言及するならば「ような」などを用いることからもわかるようにファジーな限定領域を為しているのだ。人間は(あらゆる生物はと言っていいのかもしれないけど)限定領域しか認知できない。正確には理解不能だ。(宇宙の膨張は観測できるが、そのアウタースペースについてはわからない)外部というのは常に擬似的なものでしかありえない。
言語ゲームを共有しない他者と交わろうなどといってもそれは他者なのか、外部なのか。やはりウィトゲンシュタインの言う意味で独我論は徹頭徹尾正しいのではないか。他者とは言語ゲームを共有していないかのように思えるものというべきではないか。

話がそれた。先の例のようにスポーツをはじめ現在の見えるゲームは基本的に領域は閉じられる傾向で推移してきたものだと思われる。見えないゲームは逆に領域を広げていくもの。しかしこの領域というのは客観的には決まらないだろう。人によってはサッカーとはスタジアムの外まで広がっている。節度のないフーリガン

他者がいないと特定の作品について非難しちゃうことが自分もあるけど、そもそも他者なんていないというほうがよっぽどラディカルで誠実な気もしてきてしまう。他者あり/なしとするのでなく他者性というスペクトラムで連続てきなものとして考えてもよいかもしれないが、これまた欺瞞っぽい。内部のひとだけでは外は見えない。ネオもモーフィアスがいなければ気付けない。まあだから作品においてはその作品という内部に越境者が出現すれば他者性ありでいいのかな。でもあくまでそれは内部における外部だからということを忘れないようにしよう