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john cage pour les oiseaux(3)

ケージ ラモンテ・ヤングが微分音の関係に払う非常な関心と、聴衆に要請する注意力は、実際、私が音楽を作る時の態度とはまるで違っています。私は感覚の注意を自由にしておくことを望んでいるのですが、彼の方は注意を集中させようとするわけです。
 ― そこがあなたと較べてありきたりな考え方ですね。
ケージ あるいは彼の音楽を建設的なものと考えることもできるでしょう、というのは彼が注意力の集中を利用して、聴衆のうちに落ち着きが生じることを期待しているからです。私のほうはこう仮定しているんです、落ち着きはもともと存在していると。また私たちは、なんというか、学校は卒業してしまっている。私たちは生きるのに忙しいし、初歩的な教育はもうすんでいるんだ、と。ですから私はなにも建設しないのです。
……私がラモンテ・ヤングの音楽を聴くときには、彼のやり方ではなく、私のやり方で、聞いているものを導くのです。すると彼の音楽のなかに、まさに可能性をもった事物の世界を発見できる。その瞬間、聞くということは、顕微鏡のレンズの下に特定の対象物を置くことになる、その対象物は全宇宙になりうる、単にそこまで拡大されているという事実によってね。つまり対象物であることをやめるのです。(pp.146-7)

ジョン・ケージはラモンテ・ヤングについては、落ち着き以外の特別な感情はないという。
La Monte Young:The Second Dream of the HighTension Line Step
La monte Young: Dreamhouse

またモートン・フェルドマンについては穏やかでエロチック、そして変化せずに連続しているという
Feldman: "Rothko Chapel"

コンセプチュアル・アートの人たちが彼をよく言及、参照しているけどという流れで

実際この音のない作品(4'33")で私が気に入っていることは、これを演奏することはいつでもできるのに、それは演奏されたときにしか生き始めないという点です。そしてそれが実査に演奏されるたびに、驚くほど生き生きとした経験をすることができるんですよ。

サティのヴェクサシオンを実際に十八時間演奏していると予想もつかないことが起きてきていた話しから

そこでこの体験で確かめたことをコンセプチュアル・アートに当てはめてみるとm私がその種の芸術に感じる難点は私がそれをよく理解しているとしてですが、何かが起きる以前にそれを知っていると思わせるところにあるのです。なぜそれが難点かというと、経験そのものは常に経験について考えられたこととは別のものだからです。(p.151)

ふたたびヴェクサシオンの例から

コンセプチュアル・アートは、ある理屈discourに基づいているある経験を拒絶することからなる態度と違わないと思うのです。それはただ単に、コンサートに行かないために、または古典的とか近代的とかの意味での絵画を描かないために、ある理屈のなかに閉じこもっているということです。しかしある経験を矮小化し、拒否し、除去するのを許す条件はまさに人が他の経験をもてるかもしれない条件なのです。目的論はそのあとでしか介在してきません。目的論に達するには、つまりある経験を無効にして他の経験を優遇するためには、到達したり所有したるしたいものに実際に注意を向け、自らを集中しなければなりません。しかし私は反対に、注意を拡散し、そらせようとしているのです。p.153