john cage pour les oiseaux(4)

昔ながらの水族館ではそれぞれの種類の魚が、上に名前を掲げられた小さな仕切りのなかに閉じ込められている。一方最近の水族館ではあらゆる種類の魚が一緒にいれられていて、一匹の魚が目の前を通り過ぎても、それを正しくはどんな名前で呼べばいいのか判断を下せなくなっている、と。さてそのあと私はそれを普遍化することにしたのです。アルファベット順のはいれつのおかげで、(最新の注意を要する厳密なものから、記譜法が全くないものまで)変化に富んだ記譜法が共存している私の本だけでなく、私が考えているような音楽、さらに社会全体にも適用される普遍化です。……
でも私は(芸術の)〈対応〉をそれほど信じていないのです。私にはむしろ対話があるように思えます。つまりさまざまな芸術は伝え合うのではなく、お互いに話し合っている、それらが互いに無関係であればあるほど、たいわはより有効なんです。p.161

ケージは伝達(コミュニケーション)より対話、会話を好む。(趣味はきのこと無駄話)
伝達はオブジェを想定しているから

ラウシェンバーグとは伝達の必要がなかった。マーク・トービーはアメリカ人のピカソだ。とくにホワイトライティングの時代がすきだ。

マース・カニンガムについて話すところ

二つの音がぶつかってもなんの問題もありませんが、振り付けの場合、二人のダンサーがちょっと激しくぶつかると片方がダンスを続けられなくなることもあるのです。有用性(ユーティリティ)―この場合は逃れられない必然的なものの意味でこの言葉を使っているんですが―と美的体験が対立していることを考慮しなければなりません。この対立は音楽にはない、あるいはもうないのですが、ダンスには強固に残っています。つまり音楽はどんな有用性からも解放された生の手本を私たちに示す。一方振り付けの方は、有用性とともに生きていく上でしなければならないことの手本なのです。……人間の肉体の動きによって表現されるような最も高いレベルのエネルギーは、ダンサーが最新の注意を払って自らを鍛える勇気をもったときにしか奔りでてこない p.163

カニンガムとは空間についてとくに考え方が似ていた。様々な芸術の自立とは空間の状態のことだという。

カプロー、ディック・ヒギンズには意図があるし、彼らの起こすハプニングはオブジェの状態にあるもの。
白南準のしごとは魅力的だが、多くはぎょっとさせると、ネクタイを切られたのはちょっとトラウマらしい。

次はジャズとロックのとこ