暗黙のゲーム

ゲームはサッカーや花札、格げーのようなルールが明文化されたものだけではない。映画や小説、絵画などにおいてはそれに参与していることにおおむね自覚的であることが多いが、ゲームの形式ないしゲームであるということの自覚は少なくなりがちな媒体である。
またよりいっそう暗黙裡であるゲームもある。参与していることまでも無自覚にさせてしまうようなゲームだ。あまりに自然に思え、内化されているゲーム。このようなゲームは当然参加者が多くなればそれだけそれへの批判、ましてや転覆は困難になる。
たとえばサッカーのことを考えてみよう。これは一般的に言えば明示的なゲームである。しかし殊ルール改正のことになるとどうだろう。「サッカーとはこういうものだ」「そんなルールになってしまってはもはやサッカーではない」などという意見が出てくる。もちろんサッカーであればルール改正派はそれでも多くいるので、癒着のほどは(全体としては)さして大きくはないだろう。
プレイヤーとの癒着度は、そのゲームが命名(場が開かれる)からの時間とそのゲームがどれほど中断なく続けられるかによって上下するだろう。それに加えてプレイヤー間の癒着もあるだろう。これは当然プレイヤー数に比例する。
癒着は絆とも言い換えられる。癒着というのか絆というのかは態度の問題かもしれないが、一般にそれを絆と呼ぶものの方が癒着度(絆)は強いだろう。