john cage pour les oiseaux(6)

ダニエルシャルル あなたは先日の対談で、シュトックハウゼン流の連続体という概念に異議を唱えられましたね。確定的であると同時に日確定的であるような作品を否定なさった……。
ケージ そうです、ただし〈同時に〉ということが、作品の全体像に用いられ、しかも、その全体像が本質とか非常に一般的なものとして、抽象的にとらえられている場合ですがね。それは、セリエルであるないにかかわらず、ふつうの作曲家がかなり頻繁にやっていることです。そういう作曲家はすぐに時間の外、想像上の空間に身を置く。ですから、作品が確定的なものと不確定なものの両方を含み、またその相互間のあらゆる推移の段階を含んでいるのは、明らかに、その人にとっては満足できることなのです。このようなものの見方は、確定性と較べて不確定性の持つ不思議さを打ち消してしまう。もし連続体という概念を認めれば、不確定性は確定性より完成度が少し高いか低いか程度の確定性のⅠ変種に過ぎなくなる。一方から他方に行くのに飛躍が必要なことが忘れられているのです。ではどうやってこの飛躍を遂げるのか。私の答えは時間が紗要するに任せなさい、です。すなわち、作品はこれとあれを含まなければいけないからこれこれの要素は排除すべきだといった、作品に対してあまりにも支配的で、また作品から遊離した見方に固執しないことです。作品を時間の外で考えないことです。言い換えれば、様々な可能性を確保しておくのではなく、それらが次々と現れるようにだけしておくのではなく、その線的構造を断ち切り、すべての可能性を積み上げるのです、一瞬に同時に。私たちは『HPSCHD』や『ミュージサーカス』でのように、あらゆる秩序がおのずと生じ自由に結びつくままにしておくこともできます。非‐線的構造がそれらの秩序を相殺させるのです。この非‐線的構造をゆるぎないものにしなければならない。それが〈有用なもの〉の役目です。〈有用なもの〉が非‐秩序を、じゆうに保証するのです。逆に〈有用なもの〉がなければ、避けようもなくふたたび秩序、つまり線的構造に陥ることになるでしょう。圧政や暴力は線的なものの側にあるのです。私が考えている不確定性とは、非‐線的なものへの、豊かさへの飛躍なのです。p.202

ここでたびたび言及されていた有用なもの、ユーティリティについて説明される。あれかこれかではなく、あれやこれやの状態にするためには人間を放っておいてもできない。必ず沈殿する。
そのあとあなたの作品にも確定性と不確定性の二元論が見られませんか?いえそれは揺らめく多様なひとつなんだよみたいなことを言う
ドラマの否認 ブーレーズシュトックハウゼンはドラマティック クリスチャン・ウォルフはそうでもない。