日常系は射精なきセックス

射精なきセックスをしているのが所謂日常系なのだと気づいた。
でも映画だときついんだよな。トムアンドジェリーも映画はそういった具合で無理やり何か無駄な話をつけた映画でダメだったらしい。ルーキーズの映画はその点自らの存在意義を理解し、全うしたといえる。日常系はヘテロでなくホモである必要がある。でもげいのヒトはふつう擬似的に男と女を演じてると思うがレズはどうなんだろう。

コンテンツとメディアの特性があってないとつまんなく感じちゃうものです。たとえば四畳半神話体系なんかすごく良かった。あのループは毎週同じ時間に視聴者がテレビの前に座っている(原作はまだ読んでないから小説だとどうかが気になる)というお茶の間との関係性において、また主人公の無力さを示すという物語内の効果にも適合してて作品に厚みを与えていた。終わり方もループの解消、主人公の小津性獲得、視聴者はテレビの前から離れるというとても脈略のあるものだった。視聴者に対しても働きかけていて物語としての完成度が高いにも関わらずそれだけで閉じたものになってない。

攻殻も少佐がどんなに素晴らしい作品も一過性のものにすぎないわ的なことを言ってたけど、四畳半は明言しているわけではないのでより上等な表現だ。

ところで日常系はまさに終わり方が問題だ。本当に終わらないサザエさんもあるけれどたいていはそうはいかない。射精するか否かそれが問題だ。しかし射精しない日常系はある意味無責任である。攻殻で言えば映画館にとどまり続ける観客を産むことになるのだ。
そして観客たちはまた次クールも夜な夜なテレビの明かりに照らされるのである。

ハウルのダメなところ

ハウルをテレビで見たのだ。
ダメなとこは敵(障壁)が弱すぎるところ、これにすべて還元できる。
ソフィーがまず呪われるわけだ。ばあさんになる初めは少し戸惑うがその後はむしろ生き生きしだす。もちろんハウルのそばにいられるからというので理屈は通っている。だがそれじゃ見てるほうはそのままでいいんじゃんと思えてくる。またソフィーはべつにきれいな女の子ではないらしい。(らしいというのは宮崎アニメの女の子で醜い子はいないから。醜い老婆はいるが。といってもその老婆も醜くも魅力的に描かれる。若い女の子=かわいい、かわいくなければ女の子ではない、正しいのかもしれない。いや失礼。)まあソフィーが自己言及してるだけでほんとはきれいでいいのかもしれない。ハウルもそう言ってたしね。
冒頭おとなしそうに描かれていたソフィーはばばあと化すことによってずけずけ行動するようになる。ばばあ=図々しい。ああなんて真理。これまた失礼。
それでハウルの動く城に(簡単に)入り込むわけだが、物理的にならまだしも心理的にもきわめてたやすく馴染んでしまう。コミュ力ぱねぇ。
そいでハウルさんは一人で戦に行ってることが分かってくるんですね。ソフィは別に鳥さんでもいいんだけど戦わないで的な態度をとる。このへんで若ソフィに戻ったり戻らなかったりするのが出てくる。荒れ地の魔女にかけられた呪いであるからその魔力が弱ることで呪いの効果も薄れていく、またはハウルへの愛が発露してくるとそうなるというのはこれまた論理的な話だ。
だが演出としてはソフィがそんなにホイホイ若くなったりしてたら盛り上がりに欠けるのは当たり前だ。またソフィとハウルも互いが変身している状態で受け入れあっているのですでに解決しちゃってる。これは早々に荒れ地の魔女が弱体化させられたからだ。まあそれはいいとしよう。「荒地の魔女なぞわれら魔女の中でも最弱、名もなき魔女にすぎんのだ、このサリバンこそ最強。」っていうやつでしょ。わかった、わかった。
と思いきや手下は送り込むんだけどこいつらがたいしたことないんだな。
それならばとサリバンが直々にということもない。やっぱさ偉い人は前線にはでないよーんてこと?でもそれじゃあ映画は盛り上がりません。
まあそれでいろいろあったあと荒れ地の魔女が
「ヒヒヒヒ、名もなきものだとわたしのことを思っておるのだろう。しかしな、それはみなが恐れてなを呼ばんのじゃ」とばかりに最後の方でぼうそうする…
かに見えて割と簡単にソフィに譲歩する。あれじゃあやっぱりサリバンがっ。だがサリバンも諦めがいいという。

邪悪な敵いなすぎ、人生楽勝杉、呪いも何となくとける。
じゃあずっと老化したままで最後にチューしてとけるというのが嫌ならば老婆と鳥のまま愛し合うとかじゃダメ?あのかぶにそれをもってたのが外しのつもりだったのか。それにしたら外しのための外過ぎやしないか。

と文句は言ったがおそらくはやお氏はそんなことどうでもいいのだろう。
話の筋とかには最近興味がないんだろう。というか体力がないのかもしれないけど。すげーだろでっかい城がガチャがちゃ動くんだあ―。ほら、ガシャンがシャン。あでもさ、でもさこれちょっと壊しちゃおーかなー、もったいないけどさ、あ、がんがんがちゃーん。
宇多丸氏がラジオで言ってた説ね。たぶんあってる。たくさんのものがワシャーと空に上がっていく、にゅるにゅると中に入り込んでくるとかこういうイメージは前から出てくるけど近頃はそれに意識的かはわからないが特化し来てる。まあでもハウルはそういう点でもちょっと微妙かもしれない。ぽーにょぽーにょぽにょってことだねっ

あとあの犬が押井のいぬに見えてしょうがなかった。

大きい葛篭

最近ゲームをまたやるようになった。
その中での教訓。大きい葛篭の中に災いが入っているとは限らないということ。
こういう考え方には十分いたっていたと思っていたのについ小さいほうを選んでしまった。恥ずべき道徳。科挙のための朱子学
小さいほうを選ぶ謙虚さによって利得を求める傲慢。

すきま

すきまは欠如ではない。
すきまを埋めるのは受け手である。作り手がすきまを埋めて、埋めていくと受け手は窒息する。
またFF7のなんかが出てるんだね。
作品を開くのは基本的に受け手である。
『挑発としての文学史』はあんま挑発してなかった。ユゴーとかハイネの話は興味深かった。

文体練習

翻訳調

なぜあなた方は共感したがるのか。それは人間的過ぎるでしょう。
私は吐き気を催します。自慰行為に過ぎないのになぜそれを声高に叫べるのですか。

怒れる父親

貴様はなぜ共感するのだ。何でもかんでも尻尾を振りやがって発情期の犬でももっと節操がある。恥を知れ。出て行け。今すぐ出て行け!!

春樹

僕はね自分に共感してくるやつにはむしろ軽蔑しちゃうね。だって僕の気持ちをそんなに簡単に理解できるなんて図々しいじゃないか。やれやれ。

福本

共感・・・それは徹頭徹尾敗者の論理…
だから貴様らはいつまで経ってもはいあがれんのだ。

携帯小説

なんでみんなすぐに共感しちゃうの??
それってレイプしてるのと同じことなんだよ。なんで分からないの??
みんなしんぢゃえっ♪♪

固め

共感は他者性の抹殺である。かような浪漫派的な様式は堕落したものである。
このような様式を破壊が要請される。

オタク

拙者は一般人とは違うでござるよ。ほんとやつらは何も分かってないでござる。フヒ、フヒヒ・・・

安達祐美

同情するなら金をくれ。

なんか違うな。
クノーのはおしゃれな本だからついうっかりかってしまった。
エーコにも文体練習って本があるらしい。

ウンベルト・エーコの文体練習 (新潮文庫)

ウンベルト・エーコの文体練習 (新潮文庫)

ブログに何を書くのか。

いまさらブログについてメタ発言することもないんだろうけど、最近ブログ童貞を喪失した身としてはついつい書きたくなるわけ。
ブログが世間に広まった頃はよく何で日記を公開するの?変態なの?露出狂なの?っていうのをよく聞いた。おれも言ってた。
でも実際には裸を公開してる人はいないよね。ちょっとはいるかもしれないけどさ。今まで僕は二つ記事を書いた。毒にも薬にもなりません。ページビューカウントは70くらいです。少ないです。星を一個貰った。うれしい。でもはてなスタッフだった。踊らされたと思った。いやでもありがとうございます。
私は裸をさらすつもりはないけどだいたいコンビニに行くくらいの感じで書いてるね。今のところね。たぶん寝癖くらいは直しておくかな。でもさこのはてなだとしたら星とかブックマークとかグル−プ作るやつとか、いろいろあってユーザーを定着させるような制度がいろいろあるよね。プロフィールの画像もそうだし。こういうのを自分は絆システムって呼んでるんだけど、そのせいでだんだん私、bueno1zの顔ができてくる。すると少しはおされもしなきゃねってね。といっても着脱は容易だから別にいいけどさ。
この着脱可能かってのは客観的な事実によるというよりもただの思い込みが多い。
「私が寝るとみんなが死んじゃう」ってネトゲで言ってるの2chで見たけど、傍から見たらいや離脱可能でしょって思っても本人は思ってもみないって事はある。まあこの発言はネタかもしんないけどさ。現実も同じで現在所属してるものからは離脱は可能だけどなかなかできない。現実の絆システムはちょー発達してるからね。ひどい運営だね。いやすばらしい運営ですよまったく。
絆システムは発達するほど離脱困難になるけどそれだけエキサイティングにもなるんだから。
雖も私は客観的事実人間接続不可能説を採用しており、人間は仮面でしかなく、仮面の下の素顔などない思っている。
素顔って言う仮面があるだけなんですね。ナチュラルメイク?すっぴん風メイク?だっけ。あれですね。
文句は言ってないです、むしろ好きですああいうのは。腹立たしいけど好きっていう感情、あついよね。
ギャルっぽいのは素直に好きかな。仮面を隠蔽せずにたくさん飾りつけるんだからかわいくない?そうでもないか。でも少なくとも悪質じゃない。派手なメイクを落とした後の顔をみると〈素顔〉ってあるのかなと思ってしまうこともある。

ブログに何を書くのか問題は存在しませんでした。
存在するのはブログをどう書くのか問題だけです。どんな言葉を、文法を用いるのか。わかりません。もっともこれはブログに限った話じゃないけどね。わからない。わかりません。わかりません。


結局私は露出狂でした。