ヴィヨンの妻

実は太宰さんはろくに読んだことがない。
電子辞書に入ってたので読んだ。

薄気味の悪い小説。気になったからメモ
主要な人物は大谷とその奥さん、椿屋の夫妻。
まずこの人たちは下の名前がない。大谷の妻はさっちゃんとされるが、それは後の方にお店での名前と言われて出てくるだけだ。
題名は引喩であり、フランソワ・ヴィヨンという名前は本文でも一度触れられる。ヴィヨンの妻というのは当然大谷の妻を指し示している。このように題名でも仮の名で言及され、さっちゃんという店の名で呼ばれるだけだ。
主人公である彼女は、はじめ大谷の妻としては随分まともな人かと思わされる。しかし話が進むとまったくそんなことはないことがわかる。まず金のあてもないのに堂々と椿屋に行く。さらに、あっけなくその男の手にいれられ、仕舞にはあの家をいつまでも借りてるのは、意味ないものなどといい椿屋に泊まるようにしようかなどと言い出す。
自分にはこのもう家いらないというのがほんとに気味悪く思えた。もちろん家なんて別に大した問題じゃないというクールな考え方もあるだろう。その方がなんていうかポスモっぽいし。
しかしこの話は家を捨てノマドとなるというようなものではないだろう。だって椿屋に住もうっていうんだし。妻は椿屋に吸引されすぎててちょっとビビる。最後方はなにやら前向きっぽいこと言ってるけど、もともとの人格が雲散霧消してさっちゃんしかないということをいってるようにおもえてくる

あと子供のことを書いてない。また気づいたら書こう。たぶん結構重要な要素だ
そうだ仮面のことも忘れてた。

妻はさっちゃんとして椿屋に居続けるだろう。ちょーこわいね

超密室劇、ちょっとまとめ

密室劇はサスペンスやホラーでよく見られます。というかそれらが必然的に要求します。
あ、じゃあこれで失礼しまーす、ちーっす。みたいに洋館とかラクーンシティから出てっちゃうと終わる。
密室の主要な属性の軸として気密性がある。そのサブカテゴリーとして不条理性、閉鎖性とかがあるだろう。
不条理性は他ならぬ私がまさにこの場所にいちゃうなんて性で
閉鎖性は電話線が切れてるわ、橋が落ちてるわ、ドアが閉まっちゃってるわ性だ。

sawやcubeの一作目が熱かったのはこの二つ、まとめると気密性が高かったからだ。cubeのほうが特にそうだった。たしか服装もみんな一緒で文脈情報が減らされてた。髪型がみんな一緒だったらもっといがった。
だけど両者とも結局意味の病に冒されてしまうんですね。まあ監督は違うんですけどね。cubeのヴィンチェンゾ・ナタリは無事でした。

情報公開して不条理性を減らすとただの殺人事件ものですからね。
閉鎖性を減らすだけでいいんだよ。

問題の(問題じゃないが)KR-13は不条理性は低かった。なぜは視聴者と主人公には明かされている。
まあその理由がばかばかしいんじゃねっていうのはあるが。その理由は最初から少しわかっていて徐々に増えていく。でも0から情報が増えてるわけじゃない。だからさして大きな変化はないといっていいだろう。
それで閉鎖性の方だが、これは揺らぐ。主人公、すなわち一つ外の人の手で。だが結局戸を閉める。ここがこの映画のクライマックス。絶頂がもう必死な人の目の前でドアを閉めるとこ、サイコ―だね。
最後まで人間は人間というかなしいかなしいおはなしなのです。何にも変わってないんだ。

超密室劇についてその他もろもろかくと

世界の縮図、隠喩が作れる(唯心論に到らないセカイ系?)
ゆえにソリッドな構図が描ける(ここがたのしい)
だがそれとともに戯画化が過剰になることも(これがやな人が多いのかも)
しかしなんといっても製作費が安い!(お得だよ)
それゆえ才能ある新人にもチャンスが(ザックザク)

毛糸のカービィの元も子もなさ

毛糸のカービィという新作が出るらしい。だいぶまえから決まっていたっぽいけど
New Kirby's Epic Yarnというのが英語圏での名称らしい。
この名前はなかなか気が利いている。yarnは第一義に紡いだ糸だ。そこから旅行の(信用できない)土産話、作り話という意味だ。すいませんジーニアス英和大辞典ひきました。ついでにオックスフォードの現代英英辞典を引くと二番目の項目として(informal)a long story, especially one that is exaggerated or invented と書いてあった。
オックスフォードの方は別に土産話とかはいってないんですね。糸が線状に長いというイメージです。信用ならぬのは一緒です。
そしてその前にepicとかあるのでこれはほんとに壮大な大法螺という感じだ。
糸と物語は紡ぐ。このことが英語の題ではよくわかる。しかし日本語で毛糸のカービィとすると物語を紡ぐ感じが出ない。どうすればいいんだろう。カービィの糸車とかか。それは違う。
とはいえ暗喩性が消えてるが、元も子もな性は上がってる。

こういう元も子もない系のゲームとしてはやはりペーパーマリオがある。これは紙性をギミックとして使っているのだろう。さらには物語の主題や動因にも関係しているんだとしたら結構勃起する。けどやってないから知らない。

マグリットっぽいよね。これはカービィではない糸だ。(まあほんとは糸でもないが)

そしてゲームで一番元も子もないのはやはりこれはデータであるということだよね。
01のカービィとか。どうですかね任天堂さん。

われら地上の子、正義について語る

再放送のハーバード白熱教室大体ぜんぶ見た。
マイケル・サンデルは本当に良い先生だ。それに授業のテーマ、正義についての結論が授業形式にもかなっている。この自己言及性、熱いです。教科書を棒読みしてるだけのそこの君、ちょっと反省したまえ。
かれはプラトニックな人ではありません。そこがカント―ロールズと違うとこ。ニーチェに毒されてからファッキンプラトニック野郎が嫌いなぼくは自然と共感してしまいます。
サンデル先生(なんか呼び捨てしづらくなった)はコミュニタリアンという風に分類されてるみたいです。なんかコミュニタリアンって厳ついマッチョメーンが徒党を組んでるそんな気がしちゃうかもしれない。だけど奥さんそんなことはありません。
彼がなぜコミュニタリアンなのかと言えば、それは人間というのは偶然性に左右された文脈を常に背負わねばならない存在、ダーザインなのだということなんだ。別にアメリカ最高だぜー、日本車なんてぶっ壊せ、ヒャッハーというわけではないんですね。当たり前ですね。
でもそれだとハイデガーのようにナチっちゃうんじゃないんというのも一理ある。サンデル先生はアリストテレスを敲き台にしている。アリストテレス奴隷制を肯定していたという瑕疵がある。この点についてはアリストテレスの個人的な問題としている。すなわちアリストテレス自身の議論から奴隷制について否定することもできるというわけだ。社会にとって必要であっても奴隷にふさわしい人間はいないとすれば良いからだ。ニーチェ(誤解である、特にエリザーベトファックとよく言われるが)、ハイデガーの思想は確かにナチズムに接続しうる。前者はナチスのころは死んでいたし、そもそも反ユダヤ主義者ではない、後者は違った。
現象学的なのである。あのマッハの絵のようにわれわれは肉体を伴っている。大地に立っている。輝かしい正義が天上界にあるわけではない。地べたで正義について語り続けなくてはいけないのだ

KR-13、密室ゲームはどこまで続くか

killing room見た。邦題は実験室KR-13
この類はやはりesというのがあり、もう一方にはcube,sawがある。心理面重視とギミック重視ないし内部重視と外部重視の極があるといえるかもしれない。
KRの注目するべき設定はまず主人公ライリーが一番内側にいない点だ。一番内側の密室にいない。これはたぶん新しい。(esもそうといえるかもしれないが、esはそもそもだまし討ち的にゲームが開始されるわけではないから別に考えるべきだろう)彼女はこの実験をしている組織に呼ばれ、そこに迎えられるかどうかの敷居に立っている。彼女は一番内側の最も厳重にロックされた密室にいるわけではないが、この組織で行われていることを知ってしまった以上やすやすと離脱できないだろうということだ。まあそれなりに閉じ込められているということだ。
そしてこの組織はcia直属というわけでもないが関連した公的機関でその施設は人員も十分いてよく管理されているようだ。また主人公が一番内側にいるわけではないからさまざまな情報が視聴者に提示される。実験はかなり反復して行われており手馴れているらしいことも示される。このことから少なくとも密室内部の人たちは独力で逃げることはかなり困難だろうことが感じられる。これは外側が初めから提示されているという構造からもあきらかだ。もし内部から密室の壁を突き破れるものがいれば、それはスーパーヒーローだ。もちろんこの映画ではスーパーヒーローの存在はルール違反だ。
映画の序盤では主人公が実験のビデオを見ている状態だ。ゆえに映し出されるのは完全なる無駄骨折りだ。そのあと主人公側と密室内部がリアルタイムにつながることになる。こうなると主人公の行動がなにかこの組織にひびを入れるのではないかという期待が出てくる。これはスクリーンにも明らかに示される。
そしてついには主人公は密室内部と交わる。彼女は扉をやや開けるが、鼻先で閉ざしてしまう。彼女はついにヒーローにはならない。彼女は組織に歓迎される。ゆえに実験は続く。

感想。一番狭い密室内部に主人公がいない。それはたぶん新しい。だがそれは同時に密室という設定のテンションを下げる。cubeは作を重ねるごとに外側を開示していき、作品の良さを失った。ではこの密室のテンションの代わりにKRが得たものがあったのか。おそらくあった。一つは主人公がすべてを決めるという点。そしてより重要なのは、キリングルームのような明らかな密室は明らかに恐ろしい、だがそのひとつ外側にも鍵はしまっていないがより隠微なそして悪質な閉鎖空間があるということが示されていることだ。この映画では主人公は結局そこから離脱できない。こういう話は正直大好物だ。たとえばホステルは構図としてはこれに似てた。しかし主人公はヒーローとなり離脱した。一番内側にいた人も一緒に。(まあ結局死んじゃうけど)ホステルはカタルシスを一度提示し、少し中折れさせる。(これはホステル2との関係では1の主人公が早々に殺されて、中折れさせている。カタルシスのやや中折れがホステルシリーズを貫徹するルールな気がする。)
KRの話に戻ると、しかしこの構造を発動させている物語内の動機が非常に怪しい。この組織はこの実験を通じて人間兵器を作るというがこれでそんなことができるのかという点がまず気になる。ライリーが劇中で言うようにもっとエフィシエントなウェイがイグジストするやろーと思います。まあこの点はライリーさん優秀なようなので、彼女に実験の改良を期待するということにしましょう。
密室状況の発動因を明らかにするのであればもっと強いものにするべきだった。現実の世界と地続きに思わせるならばここはこだわらねばならぬ。(でもこれは2でライリーの実験改良フラグであると好意的に解釈しよう)
それとドクターフィリップスをもっといやらしくしてほしかった。(しかしこれも好意的に解釈すると、公的機関にふさわしい態度と言えるかもしれない。かれは単なる官僚であり特別な存在ではない。彼が強烈な存在であればライリーとの関係がより緊張したものになるだろうが、するとライリーは離脱するかもしれない。離脱してしまわないことにこそこの映画の眼目があるのだからよいのだ。ゆえに2ができるのだ。やったね。)

この映画は設定がちょっとおかしいし、カタルシスもありません。扉は目の前で閉められます。でも密室系が好きであればそれなりに楽しいですよ。それに時間も大体90分くらいで短いし、というくらいのテンションでおすすめできるかな。まあまあそれなりにおすすめですね。

コジコジは(字義通り)神

日常系、他方の極に冒険系と布置されるのがはやり。
だけど日常系といってもいろいろある。サザエ、まるこ、ぼのぼのけいおんそしてコジコジなどなど。
それぞれ強みはありますが、コジコジはなんだろうか。
面白さの源泉はコジコジ=神が同じフィールドに立っていることだと思う。
用もないのにフラフラ飛び回る。
文脈を無視する。
家がない。というよりむしろすべてが自分の家。
ところが周囲に悟られぬような迂遠な形であれ気づかいもする。(迂遠じゃない時もあるが、少なくとも意図したものとは決して気づかれない形で、)
子供でもあり大人でもある、あるいはそのどちらでもないというのがコジコジなんだ。(コジコジが顔まねができるという点もそれを示している、何者にもなれるのだ。コジコジはすべてである)まさにコジコジコジコジであって他の何者でもない。そしてそれを誰も咎めだてられない。(先生も敗北する)にもかかわらず学校なんかに通っている。
それとナレーションがほとんどないのもコジコジの権力を強化してる。ナレーションがまるこのように頻繁に入れば支配者は交替してしまう。
また一話単位でみるとおよそコジコジのおかげで話が丸く収まる。故にさほど尖りすぎはしない。
コジコジのなかに「にもかかわらず」もしくは人によっては「それゆえ」というかもしれないがそういった接続詞があるから面白いけど穏当なものになってる。(一方ゲランは単にイノセントなのだ)
それがなければコジコジはねこじるになる。ねこじるは受け手が「とはいえ」を補わないと危ないものだ。好みの問題だけど少なくとも夕方地上波ではやれない。

しかし面白さはこんな説明では伝わらないのです

追記 コジコジセカイ系とした方が正確かな

じろうかミッキー、スヌーピーか

そういえば外部への流出口は固有名なんだな柄谷とかでドゥールーズ的には

関係あるようでないような話。
やっぱりコジコジは面白い。アニメ第一話。コジコジは先生に遊んでばかりでいないでしっかり勉強して立派なメルヘンものになれと職員室で説教される。それに反論(反論というかもっとさらりとしたものなんだけど)して「生まれた時からずーっとこれからもコジコジコジコジだよ」という。先生は真理だと敗北を認める。それでそとで聞いてたじろうとコロ助はまさに宇宙の真理を感じるところが示される。とはいえここまでなら普通のことなのだ。(直接関係はないがその手前をどーですとゲランが通ってやっぱりスヌーピーサイン会にいくという)
そして次の場面でじろうは家にいてぐうたらしている。そこで母ちゃんがテストの点を見つけて「立派な半魚鳥になれなくていいのかい」としかる。じろうは「じろうはじろうだよ」とコジコジの論理を使う。しかし母ちゃんは「じろうは早く捨ててミッキーでもスヌーピーにでもなれ」といってたたく。じろう流血。だがじろうも血が出てるいてぇとあまりかあちゃんのはなしを気に留める様子もない。
コジコジみたいな最強のキャラが先生に打ち勝つだけじゃ当たり前すぎるけど、そのあとじろうがそれをやるとかあちゃんに否認されるのからいい。そしてじろうがたいして気にかけないこととこがもっといい。