日常系は射精なきセックス

射精なきセックスをしているのが所謂日常系なのだと気づいた。
でも映画だときついんだよな。トムアンドジェリーも映画はそういった具合で無理やり何か無駄な話をつけた映画でダメだったらしい。ルーキーズの映画はその点自らの存在意義を理解し、全うしたといえる。日常系はヘテロでなくホモである必要がある。でもげいのヒトはふつう擬似的に男と女を演じてると思うがレズはどうなんだろう。

コンテンツとメディアの特性があってないとつまんなく感じちゃうものです。たとえば四畳半神話体系なんかすごく良かった。あのループは毎週同じ時間に視聴者がテレビの前に座っている(原作はまだ読んでないから小説だとどうかが気になる)というお茶の間との関係性において、また主人公の無力さを示すという物語内の効果にも適合してて作品に厚みを与えていた。終わり方もループの解消、主人公の小津性獲得、視聴者はテレビの前から離れるというとても脈略のあるものだった。視聴者に対しても働きかけていて物語としての完成度が高いにも関わらずそれだけで閉じたものになってない。

攻殻も少佐がどんなに素晴らしい作品も一過性のものにすぎないわ的なことを言ってたけど、四畳半は明言しているわけではないのでより上等な表現だ。

ところで日常系はまさに終わり方が問題だ。本当に終わらないサザエさんもあるけれどたいていはそうはいかない。射精するか否かそれが問題だ。しかし射精しない日常系はある意味無責任である。攻殻で言えば映画館にとどまり続ける観客を産むことになるのだ。
そして観客たちはまた次クールも夜な夜なテレビの明かりに照らされるのである。